宮城ノープラン旅その③「国宝 瑞巌寺へ」
船で松島の海を堪能した後は国宝 瑞巌寺に向かいます。
平成30年ごろまで平成の大修理なので見れない場所がありましたが
それでもかなり見ごたえのあるお寺でした。
参道を進むとさっそく地蔵菩薩が。
かつて参道には杉の木が数多く植えられていたらしいですが、
東日本大震災の津波による塩害でその多くを伐採してしまったそう。
その改修工事のため参道の両脇はシートに覆われ、
向こう側にある岩窟の石仏等が見れず残念・・・
と思っていたのですが他の方のブログ等みると、
どうにか石仏の近くに行ける道があったそうで悔しくてのたうちまわりました。
参道の中腹には津波到着地点の看板。
そして後世への警鐘の象徴としてつくられた地蔵菩薩を安置したお堂です。
自分自身被災していないのでどうしても客観的にしかとらえられないのですが、
東北を旅しているときふとこの土地に根付く復興への想いを目にすると
改めてあの出来事を考えさせられます。
この悲母地蔵菩薩はわらべ地蔵を被災地へというプロジェクトの方々の
制作している様子を綴ったブログを見つけたのでリンク貼らせてさせていただきます。
ブロンズ製。分九年(1863)鋳造。
延命のいわれは、飢餓時の幼児保護などに努めた
当山117世中方明哉の業績や長命にあやかったと伝えられている。
看板より
なんとも優しい顔つきをしていらっしゃいます。
ここからは拝観料を払い進んでゆきます。
法身窟(ほっしんくつ)
鎌倉時代中期、諸国行脚中の北条時頼が、後に臨済宗円福寺の開山となる法身性西(法身性才 俗に真壁平四郎)と出会った場所とされている。
生安二年(1300)京都嵯峨天龍寺開山の夢窓国師がここを訪れた時、無人の窟内から天台止観(=摩訶止観、瞑想についての解説書?)を講ずる声が聞こえたという。
窟内には時頼の法名碑・当山中興雲居国師行状碑・三陸海嘯供養碑等(昔も水害があった?)が所狭しと納められている。
看板より
両脇の大きな石には観音様が彫られています。
一番右端にはもう大分原型を失った石仏が。
国指定重要文化財の中門は改修工事中でした。
建築物の中で唯一こけら葺き屋根(薄い木片を積み重ねた)で
伊達政宗がそれを命じたそうです。
本堂。
撮影禁止だったので瑞巌寺のホームページを貼っておきます。
建物は比較的シンプルな造りになっていますが、
堂中のそれぞれの部屋にある安土桃山文化の障壁画はどれも美しく荘厳でした。
中でも文王の間は描かれている人々が楽し気で印象的でした。
周の文王と太公望呂尚(活躍した軍師)の出会いや宮殿の様子、首都洛陽(中国)の繁栄等を描くことで仙台の繁栄を願っているもので、長谷川等伯の高弟長谷川等胤の作品。
また松の間も色々な種類の鳥がいて面白かったのを覚えています。
真っ青な顔料で塗られた海?池?空?が強烈でした。
本堂の廊下を歩いていると裏側の戸が開けられていて、
裏庭につつじが鮮やかに咲いていて綺麗でした。
本堂をでて庫裡(くり)という建物があり、これは禅宗寺院の台所だそう。
※写真ではわかりづらいですが、左の白い建物です…
ここは国宝で、中には大きな観音様がいました。
宮城電鉄が事業の発展と無事故を祈念し松島海岸駅脇の八幡崎に奉祠されたものだとか。
この観音様、なんとつくったのは高村光雲という方で高村幸太郎の父なのだそう。西郷隆盛像や楠木正成像も手掛けた人だとか。
最後に宝物館へ行きました。
本堂にある障壁画は復元されたもので、オリジナルはここにありました。
他にも伊達家に関連する絵画や茶器などもありました。
苔。
今度は五大堂へ向かいます。
小さな島の上に建っているので橋を渡るのですが、
その端が透かし橋になっていて少し怖かったです。
上から見ると海が見えます。
五大堂は東北地方最古の桃山建築と言われています。
中国の方が集合写真を撮るために灯篭に乗ってました(笑)
五大堂からみた松島湾。
・・・その④へつづく・・・